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三河の住人の庵

三河の住人の庵

桶狭間古戦場(1)

07年1月6日、会社恒例の豊川稲荷初詣の帰り
山本勘助の墓を訪ねて立ち寄った豊川市牛久保。
すぐ近くの大聖寺に今川義元の胴塚があった。

義元墓.JPG


桶狭間で倒れた義元の胴を駿河に持ち帰ろうと 
ここまで運んできたのだが とりあえずこの寺に葬った。
後 嫡子氏真は、父義元の三回忌をこの寺で営み、
父の位牌所として寺領を安堵したという。

義元の胴塚網でをきっかけに 桶狭間古戦場めぐりが始まった。

永禄3(1560)年5月19日 当日の 
義元、信長、家康(松平元康)の足跡をたどるのがテーマである。

1月13日 朝9時すぎ 本日の出発点 沓掛城到着。
今川義元が桶狭間の前日を過ごした場所である。

沓掛城

公園として よく整備されている。
周囲にめぐらされた空堀は 印象深い。
城域は 思いのほか狭い。

19日義元は ここから運命の桶狭間に出立した。
義元のコースは調べ切れなかったので とりあえず旧東海道へ出ることにした。
旧東海道 阿野まで約3.5km。ここから桶狭間古戦場跡まで約3.5km。
途中、前後で戦死者を祀った「戦人塚」に立ち寄る。

桶狭間伝説地
古戦場跡には 私と同年齢と思われる男女が 数組いた。
中の一組は 東京から来たという。
すぐそばの高徳院では6~7人のグループと行きあった。
歴史探訪は 団塊世代の趣味として定着するかもしれない。

桶狭間古戦場跡は2ヵ所ある。
上の写真 豊明市にあるのが桶狭間古戦場伝説地。
もう一方が 名古屋市緑区の 史跡桶狭間古戦場、古戦場公園である。
どちらが本物というより 戦場のあっちとこっちというべきであろう。
行政区は違っても地続きなのだ。

豊明市側には 古戦場跡と高徳院に墓がある。
高徳院は 仏式の墓で戒名が刻まれている。
墓の側面に 願主 某 と記してある。
どんな事情があったのやら、気になる。
小高い丘の上にある高徳院には義元公陣地跡の碑も立っている。

義元公墓1 義元公墓2仏式

もう一箇所の名古屋市緑区桶狭間北3丁目 桶狭間古戦場公園。
私は 1号線に戻って大回りに歩いたので3kmくらいあったが
直線で行けば1kmくらいの至近距離である。

古戦場公園 義元公墓3駿公墓

せまい敷地だが こちらも旧跡が目白押し。
義元公 駒つなぎのネズの木・水汲みの泉(首洗いの泉)・駿公墓などなど
ほかにも 近くの長福寺には 義元公首検めの碑がある。

ここから 松平元康が攻めた丸根砦へ向かった。
1号線に戻ろうかと思ったが 距離を稼ぐため
直接 大高方面へ抜ける道をとった。
途中、ちょっと迷ったが 
なんとか車で通ったことのある道に出て
たどり着けた。

丸根砦は 名の通り丸い小山の頂にあった。
頂上は狭いが高さはある。

桶狭間の戦い前日の18日には
松平元康が大高城への兵糧入れに成功、

19日未明から丸根砦を攻撃した、
同時に朝比奈泰朝が鷲津砦攻撃を開始した。
義元の大高入城の露払いというところだろう。
  
丸根 大高
左 丸根砦碑  右 大高城址碑

丸根砦から大高城は 1.5kmくらいの距離しかない。
鷲津砦も それぞれから1.5kmくらいの距離である。

鷲津

鷲津砦から鳴海城址も2km程度の距離である。
鳴海城は今川方の城だったのだが 
信長が熱田から駆けつけた善照寺砦までは ほんの10分足らず。

鳴海城址

善照寺砦は 今では 砦公園となっている。 
それらしきものは何もない。
ただ 小高い丘の上にあるので 桶狭間方面が望める。

善照寺

ここから中島砦跡に行く。
これまた至近距離。丘を下りきったところの三角州にある。
今は民家の一部であるが、自由に入ってくださいと看板が出ている。
感謝、感謝。

中島城址

この砦から 信長の雄飛が始まったかと思うと感慨深いものがある。
ここから 桶狭間は4kmといったところか。

中島砦まで30kmを歩き この日は名鉄鳴海駅をゴールとした。





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